市橋容疑者「人の痛み、分からないよね」
市橋容疑者「人の痛み、分からないよね」
この見出しは、
2009年12月2日の夕方に読売新聞オンラインに配信されたニュースの見出しだ。詳しくは、
市橋容疑者「人の痛み、分からないよね」
https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091202-OYT1T00706.htm
になるんですが、記事の内容はどちらかと言えば市橋容疑者が大学時代から友達がおらず、外国人に大変興味を抱いていた、という内容のもので、「人の痛みがわからない」ということについて深く触れているわけじゃない。
だけれども、この言葉を中心に考えてみると、記事で言わんとすることと、市橋容疑者の人としての感情の薄さがなんとなしに見えてくる気はした(・・)(。。)
そもそも「人の痛み」っていうのは何だろう? 「人の痛みが分かる人になりなさいと言うけど、わからないよね」、という市橋容疑者の言葉のように、この「人の痛み」という言葉は、大変よく耳にする言葉だ。
この言葉の意味は、ものすごく簡単に言えば、「人からされて嫌なことはしない」ということだろう。じゃあ市橋容疑者の言う「人の痛みがわからない」とはどういうことだろうか?
上に書いた言葉を反対語にすれば、「人からされて嫌なこと」が「わからない」ということになる。
「人からされて嫌なこと」をしなくなるために一番いい方法は、自分がされてみることだ。
たとえば、小学校時代なんかに友達と話をしたときに、自分が話した言葉をそのままオウム返しされるのを延々と続けられると、すごく嫌な思いをする。
自分の親が渡してくれた木工の道具を、イタズラで電動ヤスリとかで削られると嫌な思いをする。
音楽で使うリコーダーを窓の外に投げすれてられると嫌な思いをする。
自分が大切にしている動物や友達を傷つけられると嫌な思いをする。
自分がされて嫌だと思ったことは、自然と相手にはしなくなる。自分がされたからこそ、相手がそれをされるとどういう思いになるか理解できるし、それをすることで自分も相手も嫌な思いをする、というのがわかるからだ。
「人の痛みがわからない」というのは、こういった経験が非常に乏しいと起こりやすいことだと思う。つまり、人間関係が希薄で、友達が少なければ少ないほど、経験がないが故に、「痛みのパターン」がわからない。
人は、経験していないことを、何もない状態で突然理解できるほどうまくはできていない。
市橋容疑者は空手をやっていたという。なかなかの腕前だったと報道もされている。空手は一人でやる型も多いけれども、最近は組み手も大事にしているはずだ。組み手には必ず相手がいる。
空手の稽古をしていて、相手とともに上達するということを教えてもらっていれば、「人の痛み」のなんたらが少しはわかったんじゃないかと思う( ´・ω・)
スポーツとしての「競技」は、「自分が勝つ」ことが第一で、「相手とともに成長する」というのは二の次なのだ。市橋容疑者が「人の痛みがわからない」と平然と言ってのけたのは、「自分が勝つ」ための空手を追求していたからだろう。
少林寺拳法は、この「自分が勝つ」ということを目的とする団体じゃあない。「自分に克つ」ということを1つの柱にしている団体だ。
少林寺拳法の技術は、手首をあり得ない方向に曲げて投げたり、ガンガン蹴ったり突いたりする。ぼぅとしていると怪我をする危険性はある。というか、中途半端に当たると、マジで痛い( ̄▽ ̄;)
体格のいい人が蹴ってくるのを受けるのは、痛みをともなうわけですよ、ええ。だからこそ、蹴るほうにも受ける方にも「技術」が必要になるし、お互いがお互いの技術の向上をはかる過程で、「人の痛みを知る本当の意味」を知ることが出来る。
自分には強さが大事。と同時に、相手に対する「やさしさ」も必要。
この2つを両立していければ、もっと幸せな生活を送れるんんじゃないかなぁ(^。^)
(北野)