若い子の自殺の話を聞くと、悲しくなるな
日本は人口の割には、自殺が多い国だ。
年間三万人以上が自殺する。世界で見ても六番目に自殺の多い国でもある。
六番目と書くと、一番じゃないだけマシ、と思うかもしれないけれど、日本より上にある自殺の多い国は、内戦だので国内が混乱状態にある国で、日本みたいに戦争などが起きていない国じゃあない。
そういった意味で、日本は経済発展を遂げた欧米先進国の中で比較すると、一番自殺の多い国となる。
最近、この自殺のニュースでショッキングだったのは、自殺をネットで中継した24歳の元銀行員のニュースと、今日報道された15歳の少年の焼身自殺の話だろう。
どちらのニュースも尖閣諸島のビデオ流出問題や、裁判員裁判の初の死刑判決などのニュースでかすんでしまっているけれども、これだけ多い自殺者の中で、ニュースになるぐらいショッキングだったのは、
- 死ぬ前に自分の生きている姿をネットで公開し、死にゆく様子をそのまま何千人もの人の目に晒したこと
- 焼身自殺、という自殺の中でも最も苦しいと思われる方法で自殺したこと
だろう。
24歳の元銀行員の子は、自殺前に自分の今の思いや様々な事へ愚痴など、酒に酔っていたのか、ろれつが回らない状態で、ただひたすら語り続けた。その後、自殺を行い、一度失敗したものの、二度目は本当に亡くなってしまった。
この事件は、ネットを経由して公開、という今の時代だからこそ起こった事件で、その中継の様子を見ていた視聴者も、本人に対して、「自殺はやめな!」と止めた人もいれば、「今すぐ死ね!」と言った人もいた。
視聴者の言葉が一変したのは、自殺した元銀行員のブログと思われるものが明らかになった時で、このブログには自殺する何日か前にも、ナンパを二日続けてやったとか、それまでにもナンパに幾度となく成功して、楽しかった、みたいな事が書かれていた。
視聴者からしてみれば、元銀行員の子は狂言自殺をしようとしているようにしか見えなかったらしく、罵倒に傾いた、という面もあるらしい。
いずれにせよ、結果的には亡くなってしまったことは事実でもあるし、やたらと明るいブログを書く一方で、心の中に秘めていた闇は、最後には自殺という形で幕引きを迎えさせたのも事実である。
今日流れた15歳の少年の焼身自殺については、まだその動機について報道されていないので詳しい事はわからないけれども、パニック障害を煩っていたとある。
■「残存生命」にみる、「生きる意味」■
皆さんは「残存生命」というタイトルブログをご存じだろうか。
このブログは、列車への飛び込み自殺を試み、右腕と左足の指三本を失う大けがをしたものの、かろうじて一命を取り留めた青年が書いたブログである。
このブログには、この青年が自殺を試みた時の心境と、列車に飛び込んだときの状況、病院に運ばれてから、治療が施されていくときの状況と、そのときの心境や自殺に対する思い、生きることについて、などが赤裸々に書かれている。
このブログの中に、
「自殺未遂。
それにつきまとう「なぜ?」という質問。
聞くのは容易いが…
答えは深遠だ。」
という書き出しで始まる一節があり、この中に書かれていることに、大変興味を持った。少しだけ引用してみると、
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18・理由
僕の自殺の原因をどう解釈するのか。人によって様々な「意味」をそこに見つけるだろう。失恋、就職の失敗、経済的困難、病に耐えられなくなって、鬱。僕 の未遂はそれぞれの心の中に、そのように大別されていくだろう。細かな違いはあれ、それらの組み合わせによって答えは導かれていくだろう。だがそれは真の正解とは言えない。
~~ 中略 ~~
「あなたは何のために生きていますか」
そんなこと考えたこともない人が大半だろうが、誰だってそれに対する答えは持っていると思う。子どものためだったり、配偶者のためだったり、あるいは楽 しく生きるためだったり、快楽を得るためだったりする。それが生きる意味だ。だが、それは本当に「意味」あることだろうか。あなたが意味あると思っている ことは、本当に意味があることだろうか。
~~ 中略 ~~
誰かを必要とすること、誰かに必要とされること、何かを求めること、何かに満たされること。それらは本当に意味あることなのだろうか。もし、誰かが「そん なの全部、無意味だよ」と言い捨ててしまえば、反論の余地なく、崩れ去ってしまうものではないだろうか。「愛する人といれば心が安らぐ」こう反論する人が いるかもしれない。僕はうなずきながら、こう問う。「心が安らぐことは意味あることですか」
~~ 中略 ~~
快楽は「生」に依存しているものであり、「生」が意味を失えば、快楽にも意味はない。快楽は存在する。でも意味はない。快楽を求めることは自然なことだ。でも意味はない。
~~ 中略 ~~
人生に高尚な目標を持てという。高次の欲求を満たせという。だが、自己を実現しても、アイデンティティーを集中させても、自己信頼を回復したとしても、それらはどんな意味を持つのだろう。生きることに意味はない。だとしたら、死ぬことにも意味はない。僕は思う。
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なかなか難しい問題だ。
宗教の究極のテーマである、「生きる意味」について、自ら「死」を選び、そして片腕を失った人物が語っている言葉だけに、全文を読むと、色々考えさせられた。
生きることに意味がなければ、死ぬことにも意味がない。だから、「何故自殺しようと思ったのか?」と問われると、「これと言った理由はない」と答える。
全ての自殺者がこういった心境で死を選ぶとは限らないけれども、自殺を選ぶことはないだろう私たちもまた、逆に「何故生きているのですか?」と問われれば、この青年が吐露しているように、「心が安らぐことに意味はあるのですか?」という問いかけに、窮するだろう。
■引用元■
むやみやたらにひとりごと
「残存生命」~自殺失敗~
https://blog.livedoor.jp/masanoritoshi/archives/21324782.html
■生きる意味は、自分だけのものではない■
残存生命の青年の言葉には納得する部分もある。
だけれども、あえて何かしら言うならば、生きるということは、自分にとって意味はないことでも、他人にとっては意味のあることが多いのだ。
たとえば、赤ちゃんに母乳を与えることは、母親にとってみればエネルギーを分け与えていることで、その事柄だけを見てみれば、母親にとって意味はない。だけれども、赤ちゃんにとってみれば、母親のこの行為によって命を与えられ、愛情という心を頂く。
これと同じように、自分の行動によって、自分自身が得をするという事もあるかもしれないけれども、損得を抜きして行動した結果が、他人にとって、本当に意味のあることもたくさんある。
人が生きる意味を考えるのであれば、自分の行動が結果として他人の生きる意味につながるのであれば、やはり自分が生きていることに意味があるのだろう。
少林寺拳法60周年のキャッチフレーズは、
ありがとう この生命(いのち)
ありがとう あなたとの出会い
だ。
この世に生を受けたことに感謝し、そしてその「生」を意味のあるものにするためにも、人との出会いに感謝する。
人との出会いを大切にし、人とともに生きることに喜びを感じる。それが出来れば、きっと「生きる意味」を感じることが出来ると思う。
世の中、もめ事の90%は「対人関係」です。
人との出会いは苦しみの始まりでもある。
だけれども、人との出会いがなければ、今自分が得ている楽しみや喜びも、また空虚なものでしかない。
少林寺拳法が「自他共楽」を説いているのは、人との関わり合いをなくしては生きていくことが出来ないし、また生きる意義を見いだせないからだ。
少林寺拳法の開祖は常におっしゃってました。
「自殺なんかするなよ、生きていれば必ずどうにかなる。死んでしまったら、どうにかなるもんでも、どうにもならない。人は死ぬまでは生きているんだ。だから、自殺なんかするなよ」
人は一人では生きていないんです。
何回か前の独り言にも書いたし、達磨祭の法話でも話したけれども、少林寺拳法の修行もまた一人ではないんです。
仲間と共に、生きている。これを絶対に忘れないで下さい(-人-)
(北野)