人助けをして訴えられる世の中
ちょっと前の中国のニュースなんですが、中国では人助けをすると訴えられることが増えているらしい。その記事を引用してみると、
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街で倒れた高齢者、助けようとしたら善意の声「やめとけば」=中国
サーチナ 2011/01/13(木) 12:50
https://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0113&f=national_0113_082.shtml
中国で、道などで倒れた高齢者を「見捨てる」事態が多発している。これまでに、倒れた高齢者を助けたところ、逆に「害を与えた」と訴えられるケースが発生したことが影響していると考えられる。道で倒れた高齢者を女性が助けようとしたところ「やめとけば」と”善意の声”が上がった事例もあるという。中国新聞社が報じた。
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福建省福州市では12月29日、交差点近くで85歳の男性が倒れた。周囲に人が集まったが助けようとする人はなかなか現れなかった。男性は意識を失っていた。しばらくたち、見かねた女性が「持病なら、薬を持っているかもしれない」と思い、倒れた男性のポケットを調べ始めた。すると周囲から「やめとけば」と”善意の声”が上がったという。女性が携帯電話で連絡したので救急車がやってきたが、男性はすでに死亡していた。
インターネットには、「やむをえない」とするユーザーの声が多く寄せられた。「人助けはもともと、中華民族の美徳だった。しかし今の世では、その美徳を発揮することはできない。疑われてしまうからだ」、「かかわりになることは、できるだけ少ない方がよい。現代の人の心は複雑すぎる。ちょっとしたミスに難癖をつけられるだけ。私もひどい目にあったことがある」などと、困っている人を”見殺し”にするのも、現代の中国ではやむをえないとする主張だ。
重慶市では2009年11月、中学2年生の男子が街で倒れた高齢者が起き上がるのを助けたところ、高齢者とその家族が「倒したのは中学生」として、保護者に損害賠償を求める裁判を起こした。周囲にいた多くの人が「少年に落ち度はなかった」と証言したので、一審は原告の高齢者側の訴えを退けた。原告側は控訴したが、二審の開廷当日になって取り下げた。
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王副会長によると、人と人の信頼が失われているからこそ、高齢者は「安心してくれ」との言葉を発した。「信頼を取り戻せないかぎり、道徳心が向上することは不可能だ」という。(編集担当:如月隼人)
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最後の一文に全ての思いが集約された記事だと思うんですが、善意であってもそれを悪意に転換する人間が増えてくると、確かに表題のような世の中になってしまうんだろう。
結構前から、日本の街角でも「近所のカミナリ親父」が消えた。
カミナリ親父といっても、元々は道徳を教える厳しいおじさんであるわけで、どやされることで、やって良いことと悪いことを教えられた。
だけども、最近は見知らぬ人が子供を叱ったり叩いたりすると、すぐにその親が怒鳴り込んでくるとかで、子供に注意することが出来なくなった。
もっと最近の話になると、町中で通りすがりの子供達に「こんにちは!」と挨拶をすると、すぐに「変質者出没注意!」のメールが父兄に回るらしい。
根本的なところで何かがおかしいとも思うけれども、最近の子供を狙う犯罪者は、「見かけは至って普通、素行も普通」な一般人が多く、あからさまに変な人、というのが少なくなってきているだけに、挨拶一つ取ってみても、犯罪者の「手口」なのか、単なるコミュニケーションなのか見分けがつかない。
善意が犯罪に転嫁される世の中は絶対に間違っていると思うけれども、善人のフリをした犯罪者が急増しているのは否めない。
少林寺拳法の開祖は、「正直者が馬鹿を見ない世の中を作らなくてはいけない」という思いで、少林寺拳法を創始した。
正しいことは正しいと言える勇気。
ただそれだけでは善意が犯罪に転嫁されるのは防げない。
必要なのは、正しいことが正しいと認識してもらえる社会を作ること。まずは、自分の身の回りから、それを伝える。
これもまた、少林寺拳法の活動の一つ。
マンションでの不審者対策の一つが、
挨拶をする
ということらしい。
気持ちよく挨拶できる地域社会を作っていきたいですね(^^)
(北野)